
第3話:衝撃と衝動
4月某日の金曜日、仕事が終わって、夕飯も食べ終わった22時に俺は初めてのランニングの準備を始めた。
なぜこんな時間かと言えば、答えは単純だ。リスクヘッジである。 うかつに休日の昼間や夕方に走ると、近所の顔見知りに遭遇する確率は極めて高い。一生懸命走っている姿など見られたくない。もし三日坊主で終わった場合、「最近走ってないわね」などと噂されるのは御免だ。だからこその深夜帯。
トップスは黒いTシャツ。ボトムスはスウェットパンツ。そして足元は、いくつかある靴の中からチョイスした走れそうな街歩き用スニーカー。
まあランニングなんて、いろんな人がやってるし、初めてしまえば出来てしまうだろう。とりあえず鶴見川の土手まで行って帰ってこよう。
軽く屈伸をし、スマホのストップウォッチを起動する。目標、とりあえず鶴見川の土手に行って帰ってくること。
初日の結果は満足だった。ペースも分からない中、一生懸命走った。3分で息が切れ、5分で足が痛み、10分で「帰りたい」と思った。それでも、まだ鶴見川の土手に行って帰って来れた
初日にしてはいいじゃないか。また明日も頑張ろう
帰宅した俺は、シャワーだけ浴びて心地よい疲労と共にベッドに倒れ込んだ。
2日目。多少の倦怠感はあるけれど、走れないほどじゃない。「今日もいけるぞ」と言い聞かせて走った。今日も一生懸命走って10分程度で帰宅できた。
そして運命の3日目。三日坊主になるかどうかの瀬戸際。俺はまた、鶴見川沿いの土手を目標に走っていた。
「はぁ……はぁ……ぐっ……!」
開始から数分。右の膝に鋭利な痛みが走った。 呼吸のリズムが崩れる。吸っても吸っても酸素が足りない。心臓が肋骨を内側から叩き壊そうとしているかのように暴れ回る。 足が重い。スウェットパンツが汗を吸って、鉛のようにまとわりつく。街歩き用のスニーカーは底が硬く、着地のたびにドスドスという衝撃が脳天まで響いた。
俺はチラリと、左手に握りしめたスマホの画面を見た。
『06:30』
おい、話が違うぞ。まだ鶴見川にもついてないのに6分も経っているぞ
昨日までなら、着いている時間だ。それでもペースを落として走り続ける。いや、落ちていく。もはや早歩きと変わらない速度で、這うように進む。
惨めだ。こんなはずじゃないのに。
誰も見ていないと分かっていても、この無様な姿を誰かに晒しているような気がして、顔が熱くなる。
その時だった。前方から、淡い光と共にリズミカルな足音が近づいてきた。 タッ、タッ、タッ、タッ。一定のBPMを刻む、軽やかで乾いた音。
俺は反射的にその音の方向を見ていた。街灯の明かりの下、一人のランナーがすれ違う。
――時が止まった気がした。