
魔法の靴と、禁断の果実
日曜日。待ちに待ったその荷物は、夕方の配送で届いた。無機質な段ボールを開けると、真新しい靴箱が現れる。蓋を開けた瞬間、独特の新しいゴムの匂いが鼻をくすぐった。
おぉ……これが、ランニングシューズか。
手に取ってみて、そのボリューム感に驚いた。指でソールを押すと、グニッとした確かな弾力が返ってくる。 街歩き用のスニーカーとは、もはや別の工業製品だ。
私は居ても立ってもいられなくなり、玄関で紐を通し始めた。足を入れる。 包み込まれるようなフィット感。立ち上がってみると、フワフワとした不思議な感覚に襲われた。
私はTシャツにジャージ姿で外に飛び出した。
***
最初の一歩を踏み出した瞬間、私は思わず声を漏らした。
うわ、なんだこれ。柔らかい……!
「ドスッ」という衝撃がない。
着地するたびに、厚い底が「グニュッ」と沈み込み、体重を優しく受け止めてくれる。まるでマシュマロの上を歩いているようだ。
足が軽い。膝も痛くない。これならいける。もっといける。私は知らず知らずのうちに、ペースを上げていた。
腕を大きく振り、地面を蹴る。風が耳元で強くなる。 息はすぐに上がり始めた。「ゼー、ハー」と荒い呼吸が漏れる。心臓が早鐘を打っているのが分かる。けれど、足は止まらない。新しい靴が「まだいけるぞ」と私を煽ってくるようだ。
鶴見川の土手まで、全力に近いスピードで駆け抜けた。折り返し地点で一瞬立ち止まったとき、私は肩で息をしながらも、強烈な達成感に震えていた。
はぁ……はぁ……ッ。俺、今、めちゃくちゃ速かったんじゃないか?
これだけ苦しいのだ。これだけ心臓がバクバクしているのだ。 きっと、あの夜に見かけたランナーと同じくらいのスピードが出ていたに違いない。 私は興奮冷めやらぬまま、残りの道のりも全力で走りきり、帰宅した。
玄関に倒れ込むように座り込む。汗が滝のように流れ落ちる。 間違いなく、人生で一番走った日だ。 私は震える手でスマホのストップウォッチを止めた。
『23分15秒』
……ん? 私は画面を見つめた。 時間は分かった。だが、肝心のことが分からない。 私は今日、どれくらいの距離を、どれくらいの速さで走ったんだ?
「だいたい20分ちょっと」 「たぶん鶴見川までだから、往復で……3キロ? いや、あの速さなら4キロはあったか?」
これだけ必死に走ったのだ。肺が焼けるような思いをして、汗だくになって頑張ったのだ。もし結構な距離を走っているのであれば、どのぐらいなのか知りたいという欲望に駆られた。なのに、「だいたい」でしか成果が分からないのが、無性に悔しかった。 もしキロ5分で走れていたら? いや、もしかしたら4分台だったかもしれない。その「栄光の記録」が、測定不能(データなし)として虚空に消えてしまったことが、もったいなくて仕方がない。
……必要だよな、記録を残す道具は。
頑張ったら頑張った分だけ、数字として褒めてほしい。
私はシャワーを浴びるのも忘れ、パソコンを開いて早速検索を始めた。
検索ワードは『ランニングウォッチ GPS 初心者 コスパ』。
画面には、何やら色々な項目が並ぶ時計がずらりと並ぶ。 画面の中のモデルが装着している写真を見ると、不思議と「これを着ければ、自分の頑張りが報われる」と気持ちがはやる。
これは浪費じゃない。三日坊主を防ぐための、必要経費だ。
高い会費を払ったジムには元を取ろうとして通うように、高い時計を買えば、元を取るために走らざるを得なくなる。 そう、これは自分を逃げられなくするための「保険」なのだ。
私は数あるモデルの中から、黒いシンプルなデザインのエントリーモデルを選び、ポチった。
こうして私は、最強の盾(シューズ)と、最強の管理ツール(GPSウォッチ)を手に入れた。 この時の私はまだ知らなかった。 その「データ」こそが、私を新たな苦しみへと誘う罠になることを。