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第6話 ランニング・ロジック ―45歳PM、走る趣味を実装する― 第二章:数値化の罠と暴走 その2

データの罠

 GPSウォッチが届いたのは、それから二日後のことだった。  黒いマットな質感の箱。中には、無駄な装飾のないシンプルな黒い時計が鎮座している。  私はそれを恭しく取り出し、左手首に巻いた。

たいち
たいち

いいじゃないか。これでどれだけ早くなったかわかるぞ!

 鏡の前で腕を上げてみる。手首にあるその時計と、玄関にある厚底のシューズだけを見れば、私はもう立派な「市民ランナー」だ。設定を済ませ、充電も完了。準備は整った。これで私の努力はすべて数値化され、可視化される。

 その夜、私は意気揚々と外へ出た。シューズの紐をきつく締め、時計のボタンを押す。『GPS捕捉完了』のピープ音と共に、画面が計測モードに切り替わる。

たいち
たいち

よし、行くぞ。記録をとってどんどん自己ベスト更新していくのが楽しみだ

まだ記録など一つもないのに、私は「更新」する気満々だった。先日、あれだけ全力で走ったのだ。きっと私のポテンシャルは高い。学生時代の貯金だって、まだ残高があるはずだ。

イメージの中では、風を切って走るあの日のランナーと自分が重なっていた。

走り出す。足は軽い。厚底シューズが「ポンッ、ポンッ」と私を前へ押し出す。呼吸が荒くなる。心臓が高鳴る。

構うものか。これは「速く走っている証拠」だ。夜風が耳元で唸る。景色が後ろへ流れていく。

 1キロ地点。  手首がブルッと震え、電子音が鳴った。  ラップタイム(1キロごとの通知)だ。  私は期待に胸を膨らませて、走りながら画面を覗き込んだ。  5分くらいか? いや、もしかしたら4分台が出ているかもしれない。

 画面に表示された数字は、私の予想を裏切るものだった。

 『07:45』

……は?

 7分45秒?いや、そんなはずはない。GPSは正確だ。

混乱したまま走り続ける。  7分45秒。それは、箱根で走っていたランナーの速さに比べて相当遅い。こんなにゼーゼー言っているのに? こんなに必死に腕を振っているのに?  あの夜、颯爽と走っていた彼は、いったいどれくらいのスピードで走っていたというんだ。

 2キロ地点。  『08:10』

 落ちている。ペースが落ちている。  愕然とした。  頑張っているのに。苦しいのに。数字は冷酷に「あなたは遅い」と告げてくる。

 悔しさがこみ上げてきた。  認めない。こんな数字は私の実力ではない。  私は奥歯を噛み締め、残りの体力を振り絞ってペースを上げた。  心臓が破裂しそうだ。足が重い。それでも、数字をねじ伏せるために足を回した。

 家に帰り着いた時、私は玄関にへたり込んだ。  時計を見る。トータルの平均ペースは『07:50』。  死ぬほど頑張って、これだ。

たいち
たいち

……次は、もっと速く走ってやる。

 それが間違いの始まりだった。

 翌日から、ランニングは「運動」ではなく「自分との戦い」になった。  時計の画面を睨みつけながら走る。  ペースが「7:30」を表示すれば安心し、「8:00」を表示すれば焦ってダッシュする。  景色など目に入らない。風の気持ちよさなど感じる余裕もない。  あるのは、数字に対する強迫観念だけだ。

 「昨日は7分30秒だった。今日は7分20秒で走らなければ成長がない」  「ここで歩いたら、平均ペースが落ちてしまう」

 三日後。  会社へ向かう駅のホームで、私は手すりに掴まりながら絶望していた。体がだるい。鉛のように重い。太ももはパンパンに張り、階段を降りるだけで膝が笑う。  仕事中も眠気が襲い、集中力が続かない。

 夜、帰宅して玄関のシューズを見る。あれほど楽しみにしていた、最初は前に進ませてくれていた「魔法の靴」が、今は拷問器具のように見えた。

たいち
たいち

……今日も、走らなきゃいけないのか。

 義務感。そして恐怖。

またあの苦しい時間を過ごすのか。またあの情けない数字を見せつけられるのか。時計も靴も買ったのに、たった一週間で私は「走ることが嫌い」になりかけていた。

 私はソファに深く沈み込み、スマホを手に取った。  助けを求めるように検索窓を開く。  この苦しみから抜け出す方法があるなら、なんでもよかった。

 『ランニング 毎日 つらい』  『ランニング すぐ疲れる』

 表示された動画のサムネイルに、私は目を奪われた。  笑顔で走るコーチらしき男性の写真。  そして、そこに書かれていたタイトルは、数字に追われていた私の常識をひっくり返すものだった。

 『タイムが伸び悩むあなたへ。速くなりたければ、まずは“ゆっくり”走りなさい』

たいち
たいち

……は? ゆっくり走って、速くなる?なんで???矛盾してないか?

 矛盾している。速くなるためには、速く走る練習が必要なはずだ。だが、そのサムネイルの男性の笑顔は、今の私にはない「余裕」に満ちていた。

 私は一縷の望みをかけて、その動画をタップした。

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