
ゆっくりな勇気
走り出してすぐ、私は強烈な違和感に襲われた。
……遅い。これでいいのか?頑張っている感じもしない。
意識して、歩幅を小さくする。厚底シューズのせいもあって、足もまだ疲れていない。ついスピードが出そうになるのを、あえて抑え込む。動画で言っていた「ニコニコペース」。笑顔でおしゃべりができる速度。それは、私の感覚で言えば「ほとんど歩いているのと変わらない」速度だった。
その時だ。背後から「チリンチリン」という音が聞こえた。ママチャリに乗ったおばあちゃんが、私をゆっくりと追い越していく。
以前の私なら、屈辱を感じていたかもしれない。 「ランニングをしているのに、ママチャリより遅いなんて」と、無意味な対抗心を燃やしてペースを上げていたかもしれない。
だが、今の私には「LSD」という大義名分がある。
俺は今、毛細血管を開発している最中なんでね。理由のあるトレーニングをしているのさ。
心の中でそう呟くと、不思議と焦りは消えた。むしろ、自分のペースを乱さずに制御できている自分に、プロフェッショナルな余裕すら感じていた。
5分、10分。。。。いつもなら息が上がり、胸が苦しくなり、「もう帰りたい」と時計を睨みつける時間帯だ。 しかし、今日は呼吸が全く乱れない。 足の痛みもない。 それどころか、体がポカポカと温まってきて、一定のリズムを刻むのが心地よく感じられる。
ふと、顔を上げる。 夜空に月が出ているのが見えた。 道端の紫陽花が、街灯に照らされて鮮やかに咲いているのに気づいた。
……あんなところに、花が咲いていたのか。
ここ数日、地面と時計の数字ばかり見ていて、景色なんて全く見ていなかったことに気づかされた。 風が気持ちいい。夜の空気が美味しい。 走るって、本来はこういうことだったんじゃないか? 苦しみに耐えることではなく、自分の体を前に運ぶ単純な喜び。 私は自然と笑みをこぼしながら、夜の街を「ゆっくりと」しかし着実に進み続けた。