
数字が証明する勝利
気づけば、私は30分以上走り続けていた。一度も歩くことなく、一度も立ち止まることなく。 家の前に戻ってきて、時計の停止ボタンを押す。
サマリー画面を確認する。距離は3キロちょっと。ペースは「キロ9分」。以前の私なら「遅すぎる」と絶望していただろう数字だ。
だが、私は別の数字を見てニヤリと笑った。心拍数のグラフだ。最初から最後まで、低い位置で安定して推移している。一度もレッドゾーンに入っていない。
あれ?なんかこのペース気持ちよかったぞ。
汗は心地よい程度。膝の痛みもない。何より、「明日もまた走りたい」と思えている自分がいた。
頑張らない勇気。それこそが、三日坊主の私を救う唯一の特効薬だったのだ。
それからの一ヶ月、私は憑き物が落ちたようにLSDを繰り返した。週に3回。ゆっくり、長く。基本は3キロ。調子が良くて、なおかつ翌日に響かないと判断した時だけ、4キロまで足を伸ばしてみる。5キロという壁はまだ厚いが、以前のように1キロで息絶えていた頃に比べれば、劇的な進歩だ。
ある夜、風呂上がりに久しぶりに体重計に乗ってみた。一ヶ月も走ったのだ。さぞかし劇的な数字が出ていることだろう。
しかし、表示された数字を見て、私は眉をひそめた。
開始前よりも500g増えている。あれだけ走ったのに? 晩酌のビールも(気持ちだけ)少し控えたのに?私は首を傾げながらも、「まあ、水分量の誤差だろう」と無理やり自分を納得させ、その場を離れた。だが、心の中には「ランニングなんて、本当は痩せないんじゃないか?」という小さな疑念が芽生えていた。
その翌日は出社日だった。オフィスの給湯室でコーヒーを淹れていると、後ろから声をかけられた。総務部の佐藤さんだ。
「あれ、山本さん。なんか少し、シュッとしました?」
え? ほんとうに?嬉しいなぁ
はい。顔周りとか、少しほっそりした気がします。何かされてるんですか?
お世辞かもしれない。だが、悪い気はしなかった。 私は「まあ、少し走ってるくらいだよ」と、できるだけクールに返したつもりだが、口元が緩むのを抑えるのに必死だった。
そうなんですか!私も朝少し走ってから会社に来るんですよ。おそろいですね。
仕事に戻った後も、緩んだ口元が戻ることはなかった。
その夜。帰宅した私は、すぐさま洗面所へ向かった。体重計に乗る。数字は相変わらず70kg台だ。だが体脂肪率は?
ピピッと電子音が鳴り、数字が表示される。
私は記憶の中のログを検索した。走り始める数ヶ月前、最後に測った時の体脂肪率より少しだけ減っていた。
多分体重が変わっていない(むしろ微増した)のに、見た目が引き締まった理由。 それは、軽い「脂肪」が減り、重い「筋肉」が増えたからだ。 検索した知識が裏付けされる。 『同じ体積なら、筋肉は脂肪よりも約20%重い』
つまり、私の体の中では今、徐々に「構造改革(リストラクチャリング)」が行われている最中なのだ。 不採算部門(贅肉)が整理され、生産部門(筋肉)が増強されている。 数字(体重)が変わるのは、この改革がさらに進んだ後のフェーズだ。
私は鏡の中の自分に向かって、満足げに頷いた。
「ランニングは苦行ではない。マネジメント可能なアクティビティだ」
私は完全に浮かれていた。他者からの評価というエビデンスも得た。このペースで続けていれば、いつかは5キロ、いや10キロだって夢ではないはずだ。
……そう。 この時の私は、自分の成果に酔いしれ、忘れていたのだ。
もうすぐ日本特有の「あの季節」がやってくることを。 そして、「Tシャツ」という初期装備が、最大の弱点になることを。